亡き妻の誕生日は何してる?【シングルパパと娘の物語13】

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シングルファザーが、天国の妻に宛てた手紙たち<不定期>

 

どーも気ままお父さんです!

最愛の妻を病気で亡くしました😢
妻の想いを繋ぎ5歳娘を1人で
育てているシングルファザーです。

天国の妻と未来の娘に宛てた日記や
生活の質に関することを書いてます。

何かのお役に立てれば幸いです😊

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亡き妻の誕生日に何してる?【シングルパパと娘の物語13】

【シングルパパと娘の物語】は、天国にいる妻と未来の娘に宛てた手紙だと思って書いてます。

ほっこり多めにしてあるので、天国にいる妻や娘だけでなく、皆さんも、目を細めてくれたらうれしいです。

1、年末年始の恒例行事
2、妻の誕生日
3、帰ってきたヘアピン
4、「お父さん」から「にぃにぃ」へ
5、エピローグ

 

1、年末年始の恒例行事

亡き妻と毎年恒例でおこなっていた年末年始の準備や習慣があります。

正月飾り、年越しそば、大晦日のごちそう、元旦のお雑煮、初詣など。

それらをするたびに、妻のことを思い出します。

妻が生きていた3年前までは「正月飾り買わなくちゃ」「イクラ買っちゃう??😊」「お雑煮に何入れる?」と、ワイワイ一緒に考えたりしていたお正月の準備です。

今年は、そんな妻とのやり取りを思い出しながら、年末年始の準備をしてました。

正月飾りは、簡易的ですが、妻も私もきちんとするタイプです。

鏡餅はリビングに、玄関と車にそれぞれ正月飾りをスーパーで買ってきて12月30日までに飾ります。

最近では、玄関飾りをされていない家も多く見られます。

たしかに、私も「玄関飾りの意味」を聞かれても、正しく答えられる自信など無いので、飾らなかったからと言って、何か起こる訳でも、人に迷惑をお掛けする訳でもありません。

妻も私は、「お正月はお正月らしく」と言うことで、簡易的ではありますが、きちんと正月飾りをしてました。

娘にもお正月を知ってもらいたいですしね😊

そういった何気ない習慣も私の中では、妻との良い思い出になっており、今年も妻を想い、正月飾りを飾り、仏壇の横で笑っている妻の写真の前に報告をしました。

「お正月の準備で忘れていることないかな?」「今年も何とか無事に年を越せそうだよ。」「いつも見守ってくれてありがとね。」

我が家の年末年始の“ごちそう”は、決まって「手巻き寿司」にしています。

全員で“ワイワイ😊”と食べれるごちそうでと言えば「手巻き寿司じゃない?」と言うことで、結婚して最初の大晦日に「手巻き寿司」にしようと決め、それ以来、ずっと大晦日は手巻き寿司となっています。

何年か先に、娘が帰ってきて、小さい頃などの思い出を語らいながら、食べる手巻き寿司は、私の一生の宝になると思います😊

3年前に妻と食べた最後の「手巻き寿司」も、ワイワイと楽しく食べられました😊

私は、妻との最後の大晦日を良く覚えています。

ワイワイと手巻き寿司を食べられましたが、ガン末期の妻の体調は決して良くはなく、「これがひょとして、最後かもしれない」と感じていました😥

決して、闘病を諦めていた訳ではありません。

妻が病気になり、「いつかは、お別れの時が来る」と真剣に現実を受け入れつつあったからです。

私も、妻が病気になるまでは、「いつかは、お別れの時が来る」と頭では理解していましたが、どこか先延ばしにしていた問題でした。

遠くの地域の大地震や事故などで、多くの被災者が大切な人を亡くされたニュースを見聞きするたびに、「今を大切にしなきゃ」とは、思うのですが、自分に起こっていないことは、現実味が感じられず、日が経つと記憶も風化してしまいがちでした。

しかし、私たちには、それが現実に起きたのです。

大切な人とのお別れは、現実にやってくるのです。

妻が病気になり、目の前に突き付けられ、「この今を生きる」ということを真剣に考え、妻と過ごしてました。

「今年が最後かもしれない」と大晦日の時も思い、目の前のごちそうを一緒に食べる情景を、私は、目に焼き付けておくことができました。

その時の思い出は、私の一生の宝として、今も昨日のことのように心の中に残っています。

そんなことを考えながら、今年も妻を想い、無事に年を越せました。

元旦は、家族写真を“まじめな表情”で撮ります。

1年に1回は、まじめな写真を撮りたいと二人で始めたことです。

最初は、二人のツーショット写真でしたが、娘が生まれてからは、娘も一緒に3人で、今は、娘と2人で“まじめな表情”で正月のツーショットを撮り続けています。

妻と私が、一緒に写っている最後の写真は、このお正月の写真です。

この時、妻は、とても痩せてきていましたが、とても良い表情で写っています。

妻との最後のお正月から3年が経ちました。

妻との最後の年末年始を思い出すと今でも涙があふてれきちゃいます😥

妻と決めた行事は、お正月の行事の他にもたくさんあります。

未だに“手離せない習慣”となっています。

というより、私が、“手離したくない”のかもしれません。

私が死に、娘が死んだら、妻の存在は、ほとんどの人が知らなくなるでしょう。

私と娘は、「妻がここにいた証」でもあるのです。

妻は、きっと、私たちがいつまでも“メソメソ”して過ごしていたら、「いつまでも私に執着せずに・・・😔」と心配すると思います。

逆にいつも楽しく暮らしていて、毎日、私と娘が妻を思い出し、笑顔で写真に語り掛けるなら、きっと妻は「いつも思い出してくれてありがとう😊」って喜ぶと思います。

私は、妻を想う毎日を気に入っています😊

妻のために私ができることは、「妻がここにいた」ということを、心の中に大切に残しておくことだと思ってます。

私が、いなくなれば、娘の心の中に生き続けるでしょう。

妻も私も、娘の心の中に生き続けて、娘が笑顔で過ごせるような存在になれたらうれしいです。

これからも1つ1つの行事は、妻と一緒に、娘と大切に過ごしていきたいと思います。😊

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2、妻の誕生日

皆様は、亡くなられた方の誕生日を、どのように過ごしているのでしょうか?

「生きてたら、○○才だなぁ」ってしばらくは、思う方もみえるかもしれません。

今年の1月は、妻が亡くなってから3回目の妻の誕生日となりました。

私たち夫婦は、自分たちの誕生日にしていたことがあります。

たまには、少し妻との想い出話をしたいと思います。

私たち夫婦は、生活費に余裕はなく、贅沢ができるような暮らしはできずに日々、倹約生活をしていました。

それでも自分たちの誕生日ぐらいは、「何か贅沢したいね」と、普段は食べることができない“牛肉”を食べに行くのを楽しみにしていました。

誕生日にお伺いをするお店は、決まっていて、事あるごとに訪れている飛騨牛の専門店です。

お付き合いし始めた頃、私が気合い入れてデートに誘った、色々な意味で“ちょっとお高い”お店です😊

正式に妻にプロポーズをした場所でもあります😊

想い出深いお店なので、お付き合いしている頃から、誕生日やお付き合い記念日には、訪れていました。(照れますが、お付き合いした日も大切にするカップルだったんす🤭)

結婚してからも、誕生日、結婚記念日は、そのお店で、おいしい飛騨牛を目の前にお祝いをしていました。

そんな妻との想い出が、たくさんあるお店です。

妻が他界して、初めての妻の誕生日に「どうしよう・・・😔」と思いましたが、二人の想い出の場所なので、今まで通り妻の誕生日をそのお店でお祝いすることにしました。

今年も妻の写真と娘を連れてお店にお伺いしました😊

お店までは、車で1時間ぐらいのちょっとしたドライブになります。

お店まで行く道を通ると、妻を助手席に乗せてドキドキしてデートした時のことを思い出します😊

変な交差点の名前で笑ったり、派手な形のホテルを見て「寄ってく?」とか冗談を言ったり、、😅

他人が聞くと、つまらない冗談も、二人にとっては、とても面白かったんです😅

その道を通ると今でも妻との楽しかった会話を思い出します😊

連れてきた妻の写真をテーブルの上におき、並べられたおいしそうなお肉を焼いていただきます😊

妻の写真に向かって「おめでとうね😊」と声を掛けると、妻がいつもひと口目のお肉を大切に焼いて、大きな口を開けて、放り込んだ時の満面の笑顔が浮かんできます😊

妻は、生きていたら49才の誕生日を迎えていました。

妻の写真に「もうすぐ50だぞ😏」と意地悪を言いながら、「どのような返事をしたのかなぁ」と娘と想像してニコニコできた誕生日会となりました。

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3、帰ってきたヘアピン

娘(5才で保育園年中さん)が、ある日、ヘアピンを保育園で失くして帰ってきました。

娘は、年中さんになってから、おしゃれに気を遣うようになりました。

特にヘアスタイルは、毎朝、好きな髪型にしたくて、自分で結べるようになったほどです😊

娘のヘアスタイルに欠かせないのが、“1対のヘアピン”です。

何対かのヘアピンの中から、毎朝、一対のヘアピンを選んで自分で着けます。

特にお気に入りのヘアピンは、“いちごのヘアピン”です。

2才ぐらいから使っているヘアピンなんですが、そのお気に入りのいちごヘアピンを片方失くして帰ってきました。

保育園の帰りの車の中で、「(ヘアピン)どこで失くしたの?」って聞いたら、「お砂場で失くした」と言うので、園庭の砂場で失くしたのであれば、“もう出てこないだろうな😔”と思い、「まだ、たくさんヘアピンさんあるから、、、」と声を掛けなぐさめました。

その時、娘は、それほど、気にしている様子では、無かったのですが、夜、眠る前に、お布団に入ると「いちごのヘアピンさん、寒くないかなぁ😥」とシクシク泣き出してしまいました😔

布団にくるまってシクシク泣いている娘が愛おしくなり、お布団の中で、抱きしめ、

「大丈夫だよ。きっといちごさんのお家に帰ったんだよ」

と伝えましたが、しばらく黙ってシクシク泣きながら寝てしまいました😔

翌朝、起きると、いつものように髪をお気に入りのゴムで縛りあげました。

朝食の準備が整い、食卓に座り、娘の頭を見ると、失くしたいちごのピンの片方を着けています。

「あれ?いちごさん片方だけ着けていくの?」

娘「うん。今日、お砂場でいちごのピンさんを探してくる。見つかったら片方だけだと寂しいでしょ?だから連れて行くの😊」

なんて、健気な。。。😔

出掛ける前に、妻の写真の前に座り「娘に力を貸してやって欲しい。一緒に探してあげて🙏」とお願いしました。

その日の仕事が終わり、保育園に迎えに行き、娘の顔を見るなりドキドキして聞きました。

「見つかった?」

娘「見つからなかった。明日も探してくるね」

「なかったかぁ😔」

私は、残念でしたが、娘は残念そうではなく、明日は、戻ってくると信じているようでした。

次の日も、朝、片方のいちごのピンを着けて保育園に行きました。

しかし、見つからず、さすがに“もう、見つからないかな?😔”と私は、あきらめモードで、どうやって娘をなぐさめようか、言葉に迷ってました。

次の日も見つからずに、探すこと4日目。

夕方、お迎えに行くと、娘のお友達とすれ違った時に、「○○ちゃんのお父さん!職員室にいちごのピンさんあったよ!」と教えてくれました。

走って娘を教室まで迎えに、娘と急いで、職員室まで行くと、「↓落とし物です」と貼り紙と一緒にいちごのピンさんが、職員室のドアにテープで貼られていました🤭

「あったぁ😊」と2人で大騒ぎです。

先生に言って、ピンさんを受け取ると娘は、さっそく頭に着けました。

久々にそろった、いちごのピンさん。

「おかえりなさい😊」

帰ってから、妻にも報告。

「ありがとう。見つかったよ。娘の想いが勝ったわ。」

物を大事にする心が優しく育っているのを感じられ、ドキドキ、ほっこりした新年の出来事でした😊

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4、「お父さん」から「にぃにぃ」へ

娘が、突然、私のことを「お父さん」から「にぃにぃ」と呼ぶようになりました😅

なぜかは、分かりませんが、心当たりがあるのです。

妻が、私のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたことです。

耳に残っていたのでしょうか?😏

それとも、妻が教えたのでしょうか?🤭

妻が私のことを「お兄ちゃん」と呼ぶのには、ちょっとしたエピソードがあります。

私たちは、仕事場が一緒だったので、出会ってから、お付き合いするまでは、“苗字”に“さん”を付けて、お互いを呼び合っていました。

お付き合いが始まってからは、私は妻のことを名前で呼んでいたのですが、妻は、知り合いに同名の方がいて、私のことを名前で呼ぶのに抵抗があったらしく、私のことは名前では呼びませんでした。

なんて呼ぼうか、数日、迷っていて、ある日、突然

妻「“お兄ちゃん”って呼ぶことにした。」

「君の方が年上じゃないか・・(笑)」

年上だった妻からお兄ちゃんと呼ばれるのにやや違和感があり、妻に理由を尋ねてみました。

そしたら、

妻「あなたの妹さんと弟さんが、あなたのことを“お兄ちゃん、お兄さちゃん”って呼んでることに“親しみ”と“敬い”を感じたの。だから、私も同じように“親しみ”と“敬い”を込めて“お兄ちゃん”って呼ぶことにしたの。いけない?」

「ダメではないけど、、なんか照れるなぁ」

それから、“お兄ちゃん”って呼ばれるようになり、結婚しても呼び方は変わることなく、亡くなる最後までずっと、私のことを“お兄ちゃん”と呼ぶようになりました。

今まで妹と弟が“お兄ちゃん”って呼んだ回数より、妻が1人で私のことを“お兄ちゃん”って呼んだ回数の方が多いと思うぐらい、その呼び方が気に入って、親しみを込めて「お兄ちゃん😊」と呼んでくれていました。

そして、妻がこの世を去り3年が経ち、そのような呼び方で呼ばれていたことも忘れていたんですが、今度は、娘が突然、とても親しみを込めて、“にぃにぃ、にぃにぃ😊”って呼ぶようになったのです。

まだ、娘にはなんで“にぃにぃ”と呼ぶのか理由を聞いていません。

色々、私なりに妄想しています😊

妻の呼び方が、耳に残っていたのかな?妻が娘の夢に出て教えたのかな?今でも妻と娘はこっそりやり取りをしているのかな?

妄想はふくらみます😊

とても心地好い呼ばれ方なので、理由を聞かずに、そのままにしておこうかと思っています。

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5、エピローグ

物を大切にする心や、名前に親しみを込めることなど、娘は、妻に似ているところがたくさんあるような気がします😊

私が、妻に似ているところを娘から探しているからかもしれませんね🤭

3年経った今でも、私たちは、妻のことが忘れられずに生きています。

寂しくて今でも会いたいのですが、不思議と悲観的では無いんです。

妻が亡くなり3年が経ち、少しずつ妻への執着は、減ってきていると思います。

時と共に、段々と妻が心の中に生きていくような感覚です。

それまでは、すぐそこにいるような感覚だったのですが、最近は、心の中にいつもいて私を“応援”してくれるようになりました😊

毎朝毎晩、お経を読み上げ、毎月、お墓参りをして供養しているからなのか、妻の写真に声を掛け続けているからなのかは分かりません。

私は、妻のことが大好きで、妻のいない人生は送れないと、本気で思っていました。

妻を愛していた分、失った深い悲しみは、一生癒されることは無いと、思ってました。

今、自分の過ごした3年を思うと素直に自分を「ほめて」やりたいです。

それほど、がむしゃらに深呼吸たくさんして、お経をひたすら読み、笑顔の妻の写真に声を掛けて、毎日を過ごしてきたのです。

無理矢理、娘の前では笑顔を作り、笑って過ごしてきました。

3年が経ち、やっと、少し心落ち着き過ごせるようになった気がします。

娘の前で、笑顔も自然と出るようになったと思います。

時には、涙も流しますが、妻を大切に想う“幸せの涙”に変わっています。

そのように思えるのは、間違いなく妻の存在が大きいです。

妻が、心の中に溶け込んで、心の内側から応援してくれるようになったからだと思います。

こうして、いつまでも、妻を想い生きていきたいと思っています。

同じように娘の心の中にも妻は生きています。

私と娘の心の中にいる妻を大事にして生きていけたら、妻も喜ぶと思います。

妻よ、誕生日、おめでとう。

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前回の記事を読んで下さる↓

妻との約束【シングルパパと娘の物語12】


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

このブログは、天国にいる妻と、未来の娘に宛てた育児日記、生活の質、お金について(生活費、株投資)を主に書いています。

また、3人の娘が、同時に不登校で悩んでた時の、親としての苦悩や体験談も30記事、書きました。

不登校に悩んでいる方がみえたら、力になりたいので読んでみてください。

娘の不登校体験談の最初に記事は、こちら↓

「【不登校1】中学生の娘が学校に行かなくなりました。その原因とは?」

私も、当時は、同じ悩みを持っている方の体験談などを、読ませていただき、前向きに頑張っている姿を想像し、励みになり、力になりました。

私も不登校で悩んでいる方の力や、励みになれれば、うれしいです。